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パルザムの聖コンラド証聖者   St. Conradus a Parzham C.     記念日 4月 20日


 聖コンラドは1818年、ドイツのバワリア州バッサウ司教区の一小村パルザムに、素朴な農民の子と生まれた。敬虔な母親の薫育よろしきを得て、幼時より聖徳の芽生えが見られ、当時は異例の7歳で初聖体拝領を許されたほどであった。小学生の頃から、もう人々の尊敬を受け、誰もその面前で無礼な言葉を用いる者はなかった。彼は小さい時分に父母を失ったから、早くから苦労をせねばならなかったが、世間の穢れに染まるような事は少しもなく、その少年時代を清い白百合のように過ごした。それは勿論彼が信心に熱心であったからで、世を離れて独り父祖伝来の田畑を守り、絶えず祈りの中に天主と霊的交通をしていたおかげである。実際彼の祈りを好む事は一通りでなく、働きに疲れた身を跪いたまま夜を徹して祈り明かすことも珍しくなかったのである。

 この篤信な青年は1851年9月17日、聖フランシスコの衣鉢を継ぐ修道者として、その会の貧しい会服を纏う身となった。そして厳かに誓願の式を挙げてからは、長上の信任殊の外厚く、責任の重いアルトエッチングなる聖アンナ修道院の門番の役を命じられた。彼はそれを忠実に勤める事四十有余年、その有名な霊場を訪れる総ての人々に柔和な態度を以て接し、彼等に深い感銘を与えた。コンラドは聖フランシスコの精神に従って静かな修院生活を送り、祈りと苦行とにより高邁な聖域に達した。彼は年齢と共に病弱になったにも拘わらず、時としては甚だつらく感ぜられる門番の仕事を、少しも不快な顔色を見せず欣々と果たし、あらゆる訪問客にやさしく謙遜に親切な微笑みを以て応対した。彼は貧しい人々には全く慈父のようであった。そして日毎彼等に施しをする際、いつも何か善い勧告や諭しの言葉を添えるのを忘れなかった。彼の愛徳は我が身の食べ物を節して窮迫の人に恵むまでに深かった。
 殊に貧民の子供達に対しては、彼は特別の愛を有していた故に子供達の方でも彼になつき、その界隈の子供なら誰一人彼を知らぬ者はなかった。彼は彼等に逢えば、いつもいかにも打ち解けて楽しげに語り合うのであった。そしてパンなどをわけてやる前には必ず彼等に祈りを唱えさせた。それは、まだ罪の汚れを知らぬ子供達の祈りにこそ天主は豊かに報い給うからで、コンラドは実際彼等の祈りには多くの効験があったと言っている。後年この子供達の中からは司祭になる者が幾人も出たが、それはコンラドの善導と祈りの結果に他ならなかったのである。

 「私共は祈らなければならない!」これはいつもコンラドが口にしていた言葉であった。彼はその言葉の如く実によく祈った、朝3時ともなれば彼は臥床を跳ね起き、祈りをしに聖堂へと急いだ。そして彼が全く祈りに没頭して天主との霊の交通に一切を忘れているような時、彼の口から火花が散り、その姿から後光が射すのを見た人も少なくなかったという。
 修士コンラドは昼間仕事をしていながらも絶えず祈った。彼は又御苦難の主に対して特別の信心を有し、毎日十字架の道行きを欠かさず、時には幾時間も十字架の前に跪いている事さえあった。
 「十字架は私の教科書です」と彼はかって書簡の一つに記したことがある。「私はそれで謙遜と柔和とを学びます。又どんな場合にも十字架を仰ぎ見さえすれば、すぐに処すべき途がわからぬという事がありません。」

 修士コンラドの生涯は静かに過ぎ去り、遂に1894年の4月21日、天主はこの忠実な僕を永福の国へと召し給うた。それはちょうど土曜日の夕方で御告の鐘の音が町中に響きわたり、野末遠く消えて行った時であった。彼の訃報に接した人々はいずれも「聖人がなくなられた」と言って、その死を悼まねばならなかった。
 生前数多の善行を行ったコンラドは、死後も永く忘れられる事がなかった。多くの貧しき者、悩める者は、彼が天国にいて、なおも自分等に助力を与えることを確信して、或いは彼の墓に巡礼し、或いは彼の代祷を願った。そして案に違わず豊かな効験があるのを見ると、彼等のコンラドに対する信頼の念は、いよいよ高まるばかりであった。実際彼の取り次ぎによる願いは続々聞き入れられたのである。
 かくて彼は1930年の6月15日福者の位に挙げられ、更に1934年5月20日、聖霊降臨の大祝日に荘厳な儀式執行裡に聖人の列に加えられたのであった。

教訓

 聖コンラドの生涯には外面的に人目を驚かす偉大な行為は少しもない。が、熱心な祈りと共に、己が日々の職務を忠実に、良心的に果たした事が彼をその聖域に至らしめたのである。我等も彼に倣おう。そうすれば主は我等をも愛と歓喜との御眼差しを以てみそなわすに相違ない。